多摩川の堤の散歩は毎日のように行っていますが「中野島の渡し」の標識を見つけたのは今日5月21日の夕方です。
明治18年頃から、中野島から向こう岸の下布田、国領、上給の3カ村への物資を運ぶ多摩川の渡しが昭和10年まで続いていたのです、と標識にしるしてあります。
人の往来もこの渡しを使ったのではないかと思うのですが、標記は、梨や桃、肥料(こやし)等を向こう岸の村のために運んだとあります。

サミットの前の交差点をもう一本多摩川寄りの道を南に歩いていくと、その通りが「筏道」と書かれた標識を見つけて「おお!なる程、多摩川の上流から材木を筏と組んで、この中野島まで運んできたのだろう」と想いを深めたものです。そうすると、この周辺のどこかが、材木貯水場であったのではなかろうか―と。それなら製材所のおもかげがあってもと、勝手に想像していた、ところにこの「渡し場」のあったことを知ると、中野島は梨畑のイメージばかりがあるが、その時代の要所であったようにも思えます。

中野島上流下流には立派な橋がかかっているので、昔の人はこの川をどうやって渡っていたのか?と想いめぐらすこともなく、ただただ、夏の調布の花火、世田谷の花火に多摩川の存在があり、やっと昨年の台風19号で、多摩川の恐ろしさを思い知らされたが、昔の人は、この恐ろしい多摩川を利用して生活を営んできたことの証しが、この標識は物語っているように思います。

すでにこの標識をご存知の方は、今更とお思いでしょうが、他県から来た私にとっては心のよりどころですので、昔の人の息づかいを感じるのです。
そう思ってつぶやいてみました。改めてこの標識を見つけてください。

8+