秋が深まると山の木の実もみのって、リスや鳥たちがごちそうにありつきます。
が、私の思い出は、戦後の食糧難、一番厳しい時のことです。

都会の子供は、食べるものないし、住む家も焼けだされて、一番辛い時代が昭和25~6年頃でした。
私の住む村の小学校に、「都会の子供たちに送るからドングリを集めて来い!」と教頭から指示があった。子供たちは「よし!集めてくるぞ」近くの神社の森には、どんぐりの木は何本もあったので、別の村の子供たちもそのどんぐりを狙ってとりに来ていて、ケンカになった程、真剣に集めたのです。食べものに困っていたのは村の子供たちも同じでしたが、彼らはあたたかい「おうち」がありましたが、貧しくても元気でした。
「先生、このドングリどうするんですか?」
「これを粉にして都会の子供の食料にするんだ」と先生。
「よし、もっととってくるよ」
子供たちはサルのように木に登ってドングリを集めた。

ある日先生が、「明日から君たちはおわんと箸を持って来い、給食がでる」といいました。
「給食って何ですか?」「おわんと箸を忘れるなよ」
お昼休みに入ると、用務員さんのいる部屋の前に5年生と6年生が並んだ。
ドラム缶の上にかかっている大きな釜は湯気をたてている。
「みんな整列せい。これから給食を渡す。おわんを持ってきたな」
「はあ~い!!」
あれはなんだ早く食べたいな!
「これはみんながとってきたご褒美に、ドングリの水とん汁を配給する。おかわりはないよ!」
ドングリの水とんは、塩のうす味で、ちぎったような団子が3個入っており、子供たちはキャーキャー言いながら、「給食」なるものを腹に入れた。
「先生!これは毎日ですか?」
それは学校の先生達が都会の子供たちがどんな風にして食べさせているのかを、田舎の学校でも体験させただけで、田舎の子供たちが、ドングリを都会の子供たちに送る意味を教えたかったのでしょうか?あれはドングリの粉だけではなく小麦粉も混ぜて作った水とんだと分かったが。
都会の子供たちは喜んで食べてくれたのか、仲間で話し合った。

それが次の話につながって、運動場を畑に作り直して、そこにサツマイモを植えることにつながったのです。

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