我々が日々利用している南武線の前身が、意外なことに、多摩川の砂利を運搬するために敷設された「多摩川砂利鉄道」だったということから、なぜか多摩川での砂利採取の歴史についてもう少し知りたくなった。ということで、いろいろ資料を漁った結果、だんだん概貌らしきものも見えてきた。また、これまで知らなかった面白いこともいろいろわかってきた。

江戸時代から江戸では種々の普請のための砂利の需要が多く、当初はあちこちの砂利場で砂利を採取しており、それは明治頃まで続いていた。多摩川での砂利採取が文献で最初に見られるのは、宝暦3年(1756)下丸子でのもの。以降各所で採取されていたらしいが、最終的に小杉・上丸子・上平間等9カ村の村ごとの村請制により採取されることとなり、木造帆掛け船の砂利船で六郷まで運ばれ、そこで積み替えられ江戸まで運搬されていた。当時、砂利は「坪」という単位で計量されていた。因みに、「坪」は6尺立方で、約6立米、重さで約10トン。

明治時代頃の用途は道路などに敷くため等の大粒のものの需要が多く、多摩川沿いの村々での「砂利ふるい」が農家の現金収入になっていたらしい。さらに、大正時代になるとコンクリートの材料としての需要が増え、特に関東大震災後の復興のため需要が急増している。この頃から大型機械による採取が始まった。

また、砂利の採取と鉄道の敷設は大きく関連している。昭和2年の川崎ー大丸間の多摩川砂利鉄道(現南武線)・調布ー多摩川原間の京王電気軌道(現京王線多摩川原線)・武蔵境ー是政間の多摩鉄道(西武多摩川線)・国分寺ー下河原間の東京砂利鉄道(国鉄下河原線)などの敷設により、砂利採取はいっそう活況を呈した。中野島からの、また宿河原からの引き込み線に見られるように、本線から多摩川に向けて弧を描くようにそれぞれ線路が敷設されていた。

このように機械化と鉄道により多摩川の砂利採取は昭和初期に最盛期を迎えるが、同時にさまざまな悪影響もでてくる。護岸堤防の破壊・川床面低下による農業用水の取水難・水質汚濁による漁業への悪影響等があり、次第に採取の規制が厳しくなり、最終的に昭和40年に多摩川では全面採取禁止となっている。

さて、中野島に存在していたという鉄道の引き込み線は、
- 現在のどの場所にあったのか?
- いつ頃敷設されたのか?
- いつ撤去されたのか?
ということ。

何種類かの国土地理院の古い地図で見ると、現在の中央商店街近くにあった旧中野島駅から登戸方向へ、現在カリタス幼稚園の敷地となっている部分を三分の一程かすめて左方向へ(多摩川方向)湾曲して多摩川土手近くまで伸びていたことが分かる(写真①)。しかし、今現場近くを歩いてみても、その辺りには家屋がびっしり立ち並び、残念ながら撤去された痕跡らしきものすら見当たらない。ただ、1961-63年ころの航空写真で見ると、朧気ながらその痕跡らしきものをうかがい知ることができる。砂利採取の全面禁止が昭和40年(1965年)なので、中野島での砂利採取はそれよりも早い時期に中止され、引き込み線も早々に撤去されたものと思われる(写真②)。

一方、宿河原の引き込み線(写真①の中央右に見える)の跡は今も生活道路として残っているので、ご興味ある方は現地でご覧になるといいだろう。地図を見るだけでもかつての引き込み線の跡だということがはっきり分かる。
なお、これら引き込み線の敷設の時期は未だ分からず、継続調査中。

① 昭和12年測量の国土地理院作成の地図
地図の左上に南武線旧中野島駅から弧を描いて多摩川に向かって引き込み線が伸びている。
② 昭和36-38年の航空写真
写真の左下を走る南武線中野島駅付近から左カーブするような撤去された引き込み線の痕跡が微かに窺える。

(Henk)

参考文献:
川崎市史
稲城市ホームページ

 

 

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